承認欲求を「無力感」にすり替えない【気負わず生きましょう】

ウクライナ情勢や社会問題を目の当たりにしたとき、もしくは日々の仕事で価値提供できかなったときや、思い通りにいかなかったときに発生する「無力感」

僕も何度も感じてきたこの「無力感」

「無力感を感じる背景に何があるんだろう?」と考えてみた。

無力感の根っこには

「社会や他者に大きなインパクトを与えられないと意味がない」
「自分はものすごいことをするべき人間だ」

という前提があったことに気づいて以来、僕は無力感を感じることを手放そうと思った。

それはただの奢りであり、承認欲求でしかなかった。

「無力感」という言葉には「誰かの力になりたい」という利他で高尚っぽい気持ちがあるように見える。

要するに見栄えが良い。

しかし実際は「ものすごいことをできる自分でありたいがそれができない」という屈折した承認欲求を「無力感」という高尚なワードにすり替えていただけだと気づいた(もちろん個人的にそうだというだけ。違う人もいると思う)

本当に誰かの力になりたければ、「無力感」を感じてグズグズしてる間に、自分に過度な期待をせず、地に足をつけて自分がやりたいと思えることを粛々とやっていくほうがよっぽど建設的だ。

人が人に影響を与えられるかどうかなんて、すべては受け手次第でコントロールなんてできない。

それをコントロールできると勘違いしてるから、そこに執着が生まれ、できない自分に落胆する。

少し脱線するが、最近歴史をコツコツ学んでいる。

歴史上の偉人はもちろんその人の功績がものすごいということもあるが、それ以上に偉人の評価はその時代の社会規範に依存していることに気づき、目からウロコだった。

生きてる時代には全く評価されず、死後にその評価が見直された偉人も沢山いる。

また世界を変えるような影響を与えた偉人が、プライベートや家族に対して今の社会規範からすると「クズやん」と思うようなことをしていたりということもある。

人は多面であるし、評価の良し悪しもどの切り口で見るか、またどの時代の社会規範で考えるかによって全く異なる。

そして社会規範はコロコロ変わる。

資本主義社会であれば多くの富を生み出したり、偉大な企業を創設した人が当然評価されるが、それも時代が変われば評価基準は異なる。

要は普遍的な功績なんて存在しない。自分がたまたま生きている時代の社会規範の中で「ものすごいことをしたい」という気持ちがどれだけ儚く虚しいものか。

そんな移ろいゆく「(社会規範の中での)すごそうな人」を目指したって、そこに本当の充足はないと強く思う。

社会規範はコロコロ変わっても、自分が純粋に好きとか楽しいと思う気持ちはそう簡単には変わらないし裏切らない。

そんな純粋な好きや楽しいと思えることを思い切りやって「結果的に誰かの役に立てたら設けもん」くらいの気負わないテンションで生きていた方が結果的に人の役に立てる機会も増えるだろう。

僕も人間だから気負うことはいっぱいある。

人を思うようにコントロールできると勘違いすることも日常茶飯事。

そんな気負いの背後にあるのは大体濁りの欲求だ。

これからも沢山濁ることはあるだろうけど、そんな濁りに気づき自分でろ過できることができれば、きっと純粋に人生を楽しみやすくなると思う。


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